鶏公日記
考えてみますと、今日は朝からすでに幸先がよいとは申せませんでした。
被爆体験伝道者の方の講演があるというのではるばる日本大使館へ出向いたものの、家を出た頃には機嫌がよかったお日様、わたしがバスから降りた途端にそのお顔を背け、にわかに雨のつぶてを降らせたのです。
アイスランドでは、晴れ、曇り、雨、風、雪、これらが一日に体験できるという風説が流れておりますが、これはまったく偽りにございません。
晴れかとおもえば雨がふり、雨かと思えばつむじ風。
冬にむかうのが本当におそろしうございます。
あいにくの天気で予定していたプールにはゆけず、たべどきを逃しつつある鶏肉をなんとかすべく鶏ハムをつくれば指にやけどを負う。おまけに買っておいたほうれん草からはあやしいにおいがいたしました。
ついていないとは今日のわたしのような者のことを申すのでしょう。
ですがこれはまだほんの序の口にすぎなかったのです。
わたしの住んでおります学生寮の、わたしが住んでおります部屋のあります一階には、十数人の学生が、台所や手洗い場を共有して暮らしております。
プールをあきらめ自室で勉学にいそしんでおりましたところ、そろそろ夕ご飯をたべようという頃合いになり、わたしは台所にむかいました。
扉を開けますと、ふたりほど先客がありました。
そのうちのひとり、カナダ出身の、今にも折れてしまいそうなほど細身の青年、仮に鼎(かなえ)とでも申しましょう、かれは拙い英語をはなすわたしにもよくしてくれる、寮におけるわたしの心のよりどころとも申せる人物でございます。
わたしは考えました。ことばでうまく伝えられない日ごろの感謝を、いまこそ行動で表そう、と。
そう、日本の伝統文化、おすそわけです。
鶏ハムをつくったので、よかったらどうぞ。
かれ(ともうひとり)は笑顔でひときれを口にし、おいしいよ、きみの食事はいつも健康的だね、などとやさしいことをおっしゃいます。
すこし元気がでたわたしは、気になっていたことを尋ねました。
そういえば、よくとうふを食べているということだけれど、とうふがすきなんですか?
かれはこたえました。
うん、ぼくはとうふとかそういったものをたくさんたべなくちゃいけないんだ。
なにしろ、ぼくは普段、野菜しかたべないからね。
わたしは耳を疑いました。
それでもきき間違いであろうはずもございません。
ああ、なんということでしょう、鼎は菜食主義者だったのです。
その後わたしが平謝りに謝ったことはいうまでもありません。
かれは持ち前の笑顔をみせながら、言っていなかったことだし、おいしかったのは事実だから謝らないでくれ、とこれまたやさしい言葉で慰めてくれましたが……
かれの笑顔がわずかにひきつってみえたのは、気のせいだったのでしょうか。
鼎たちが部屋にもどったあと、台所にはひとりわたしのみが残されました。
指にやけどを、心に傷を残した鶏ハムをひとりさびしく食べていると、なんだかこのおいしさまでがにくらしく(肉ではあるのですが)思えてくるのでした。
消化しきれないものを抱えながら部屋にもどると、わたしは窓から夜空を見上げました。
菜食主義者に肉を喰わせるという蛮行に手を染めてしまったわたしにも、月は平等に、その慈愛に満ちた光を投げかけます。
そして、奇しくも今宵の月はスーパームーン。
月の光がどこかやさしく感じられるのは、照らすのではなく照らし出されていることによるのではないかしら。
なんてことをぼんやり考えながらも、そのたおやかな光の中に、やはりわたしは鼎のはかなげな微笑みを拭い去ることができないのでありました。
(了)
※写真載せろよ!という声がきこえてきそうですが……現在デジカメでとった写真を載せることができないので、できるようになりしだい載せられたらなあと思います。ごめんなさい